活動報告ビラ

能登 被災者支援ボランティア活動

    能登半島地震の被災者支援ボランティア活動を行なってきました

    未だに避難生活
    私、荒木てつは、8月1日から8月3日、能登半島地震の被災者支援ボランティア活動のために石川県に行きました。
    8月1日の昼過ぎに、羽咋市(はくいし)にある日本共産党が開設した能登半島地震被災者共同支援センター(写真下)を訪ねました。そこでスタッフの金沢敏和さんから、地震のため全壊・半壊した家屋は合わせて約2万戸、一部損壊も合わせると約8万戸になること、損壊した家屋は公費解体しなくてはならないが進んでいないこと、県は仮設住宅を7月末までに6000建設すると言っていたが、現在5000戸しかできていなくて間に合っていないこと、未だに学校などの一次避難所で生活している方たちがいることなど、復興が遅れているという説明を受けました。

    支援物資を届ける
    センターが行なっている主なボランティア活動は、全国から寄せられた支援物資を仮設住宅を回って届けることですが、仮設住宅の他に賃貸住宅の空き室を国が借り上げた「みなし仮設」というのもあり、その場所は政府が公表していないため、そこに支援物資を届けることは難しいということでした。
    その日の午後は、支援物資を運搬する車に積むことと、全国から寄せられた米を3㎏入り袋に分けて入れるする仕事をしました。
    2日目の8月2日は、やはりボンティアに来ていた岐阜県各務原市(かかみがはらし)の日本共産党市議の波多野こうめさんたちと一緒に、震源地に一番近く被害の大きかった珠洲市の仮設住宅に米などの食料と飲料水を届けに訪問しました(写真左下)。
    珠洲市は能登半島の中でも一番突端で、支援センターからかなり遠く、朝9時に車で出発して到着まで2時間以上かかりました。
    仮設住宅を訪問する前に、1時間ほど珠洲市内の被害状況をスタッフの方に案内して頂きました。前日の説明の通りで、公費解体は進んでおらず、解体されていても瓦礫の処分ができておらずそのままになっており、一階部分がぺちゃんこになっている家もたくさんあり、傾いている電柱や信号機もそのままでした。倒壊は免れたものの家の中の被害が酷くて、「危険」や「要注意」の張り紙がされている家もたくさんありました。

    津波の被害も
    この地域は海が近く、津波の被害もあり、海岸近くのお土産物屋とスーパーマーケットを兼ねた店は、津波のために一階部分はめちゃめちゃになっていて再建は不可能ということでした。また、漁業の町であったのに、地震と津波で港が使えなくなり、生業が失われているということでした。
    かつて珠洲市は原発の建設計画があった町ですが、住民の反対運動で原発は建設されませんでした。もしも原発が建設されていたら、どうなっていただろうか?大変なことになっていただろう、そんな話がその場で出てきました。

    仮設住宅を訪問


    市内の被害状況を案内して頂いた後、昼食をとり、午後1時頃に仮設住宅を訪問し支援物資を届けました。留守のお宅も多かったのですが、いらした方はみなさんに一様に「大変有り難い」と、支援物資を受け取っておられました。しかし、何かお困りのことはないか、という質問に対しては、「特にない」という返答が多かったのです。これはあくまで私の想像ですが、仮設住宅には入れた自分たちよりももっと過酷な状況の被災者の方たちを知っていて、その人たちのことを考えるとこれ以上贅沢なことは言えないと思って、遠慮しているのではないかと思いました。この想像が正しいかどうか分りませんが、いずれにしても被災者の方たちから本音が聞けないようなもどかしさを感じました。
    それでも「戦争や軍事のためにお金を使わずに、もっと能登半島の方の支援をして欲しい」とか「仮設住宅を出た後のことが心配だ」とか「日中、ずっと仮設住宅の中にいるのはつらいが、かと言って、この暑い中を出かける気にならない」とかいう声を聞くことはできました。
    3日目は、羽咋市、かほく市、内灘町で、地震の被害が酷かったところをセンターの方に車で案内してもらいました。この辺りの市や町は、震源から約100㎞も離れているのですが、場所によっては液状化現象が起きるなど深刻な被害が出ています。やはり公費解体は進んでおらず、倒壊した家、辛うじて立ってはいるものの危険の張り紙をされている家があり、道路は隆起して凸凹になっており、倒壊注意の張り紙がされている斜めになった電柱もありました。その後、帰路につきました。

    住宅耐震化の必要性を痛感
    私がみた地域は、被災地域のほんの一部でしたが、やはり、事前に聞いていた通り、復興は遅れており、国や県はもっと復興と被災者支援に力を入れるべきと感じました。
    そして、防災対策、特に今回の地震も圧死による死者が最も多かったということですから、住宅の耐震化は特に力を入れて取り組む必要であると思いました。震度6や7にも耐えられる住宅が増えれば助かる命も増え避難生活を余儀なくされる方は少なくなります。住宅の耐震化が進んでいれば、能登半島地震の被害状況は全く変わったものになったのではないでしょうか。
    私、荒木てつは、今回の体験を生かして、住宅の耐震化の促進をはじめ、狛江市の防災対策を強化するためにがんばります。